2月22日(月)あと6日間カウントダウンのように時はすすみ、ミャンマーの国軍クーデターに対する民衆の抵抗闘争はゼネストに発展しています

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こういった文庫本は持ち歩きもでき読みやすいので半分くらいは読みました

本日は裁判所までの往復地下鉄代金240円×2=480円が交通費。朝は緑茶を200㏄、昼は野菜たっぷり入りクリームスパゲティとグリーンサラダ、小ライス、紅茶1,100円のランチ、夕食は豚ロース肉入り具だくさんの豚汁、ブリの刺身、カツオのたたき、五目ご飯と麦のジュース500㏄、食い過ぎで1,500円で食費は小計2,600円、このほかに裁判所が終わってからの懇親でコーヒー・紅茶代の交際費2,400円、支出計は5,480円です。

 

日本人の死生観は多く仏教思想と結びついているのでしょうが、輪廻転生はチベットのようには信じられていないと思われます。また、世界中で、輪廻の死生観は迷信で俗見で非科学的な願望を現しているにすぎないと認識されているものと思われます。なので、菩薩についても繰り返し繰り返し生まれかわり生き返って人々を救うために活動を続ける、というのもまたありえないことと考える人々のワウが圧倒的に多いわけです。おおむね、1回限りの人生とほとんどの人が考え信じ込んでいるのに、それほど1回限りの人生を、その1年を、その一刻一刻を大切にしてはおられないように思えてしまいます。ガンバっている人ももちろんたくさんおられますけれどね、まぁ、一般の人は、ということで。

ドストエフスキーの『死の家の記録』を読んでいると、作者自身がツアーリー暗殺計画への連座のもとで死刑すれすれまで行ったけれど、突然死刑執行が止められてシベリア送りになったということですから、この本はそうしたシベリアでの実体験によっているところがずいぶんあると思われます。そして、苦しい囚人としての監獄生活のその苦しみは、自由ではないことに起因します。思うとおりにいかないこと、自由ではないことが、「苦しみ」そのものであることは仏陀の教えと一致していると思います。しかし、いずれにしても人間というものは、その人間を囲繞している環境や関係性によって拘束されている事実は否定できがたく、自由とは必然性の認識と必然性を把握した上でそれを変更可能なところで突破することにあるとすれば、なかなか並の人間にできることとも思えません。なので、賃金奴隷制の軛によって自由であるはずの労働者階級が実は資本主義の現実のもとでは決して野垂れ死ぬほどの自由程度しかもっておらず、究極的に見て失うべきものを鉄鎖以外に何ももっていないというなかで、その社会の主人公となっていくプロセスこそ重要であると考えられます。この変革主体の形成とそれを市民社会の中で眠り込ませようとする諸々の誘惑を欲望の体系として創出していく資本に対する抵抗がからまりあっている、と思います。それは一面分断であるけれども一面鉄鎖の環となって労働者を資本主義的生産様式にかたく縛り付けくくりつけているものです。それがブルジョアによってつくりだされているこの社会のヘゲモニーです。

 

あすで、家計簿運動もあと5日となり、3月初旬に向かって仕事もいろいろと積んでおり、疲れがたまるといけないので、本日もこれぐらいで。ごきげんよう