2020年2月14日(金)

今日はG氏と落ち合って、K氏と3人で1時間半ほど若干の論議をおこない、その後電機情報ユニオンの春闘宣伝行動への支援が延期となったため、黒交わすポートセンターへ行ってリハビリトレーニングをおこなってきました。交通費は200円×3の600円。食事は、朝が水200㏄、昼顔増に、お汁粉ともち三昧のうえ、夕食も餅入り味噌煮込みとイチゴで、昼が300円、夕食400円の小計700円で、本日の支出小計が1,300円、累計が53,436円となり、明日で折り返し点ですが、単純に倍すると2万円くらいオーバーかなという感じです。

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今日も『賭博者』は読めませんでした。そのかわりとも言えませんが、絲山秋子の単行本『妻の超然』最後の作品『作家の超然』を読了し、「文学の神様、それはギャンブルの神様とどこが違うというのか」「文学は、どんなにがんばっても忘れられた経済学の理論以上にはなれなかった」などの文章に刺激され、いろいろなことを考えました。

「忘れられた経済学の理論」が世間一般との関係においてマルクスの理論であると仮定するならば、それは資本主義の変革を志す者たちにとっては忘れ去られてはいないばかりか、いっそうの生命力を具現化しようとしているというべきことや、また文学作品の評価においての価値を考えるなら、また異なる理解を持たざるを得ないこともあります。例えば、ある書物の使用価値は、とてもその本を買った値段とは一致しないことはいうまでもないし、それは『資本論』と『逃亡くそたわけ』のどちらでもそうであるでしょうが、仮に1冊2,200円だったとしても、その内容はそのような価格表現分の価値しかないかというとそんなことはありません。同じような「10エレのリンネルは1着の上着に等しい」という文章が書いてあっても、その主観的価値のありかは人によってまったく違うのであり、人間それぞれの主観的な価値というものは、完全に客観的な人間社会の経済的社会構成体においての価値とは違ったものなのです。

そんなことは当たり前だとしても、『資本論』の価値も計り知れないほど巨大であるけれども、人間の文明・文化、芸術・文学の価値もまた大変なものがあることはいうまでもなく、それと書籍の代金はまったく無関係だから、そのことではとても大きな恩恵を受けていると思わなければなりません。人類の知的遺産はとてもお金ではかれないのに、最低賃金生活体験をしていても、そのお金ではかられようもないものを絶えず問題意識として摂取し続けて生きていくことを自覚的に貫く生き方をする、それが支配層に対置すべきアンチテーゼをなしていると思います。

おそるべし、ひとのこころ。きょうはこれくらいで。