2月17日(水)楽しいことばっかりだといいのに、と思うなら、人間性の発展はもう望めなくなるでしょう

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人間の方がよいなどとどうして言えるのだろう

今日は地下鉄で丸の内へ行き、そのあと伏見へ行ったので、交通費は240円×2の480円でした。そのほかにタクシー代が1,000円で、交通費の小計は、1,480円です。

本日朝、スーパーに買い出しに行き、4,617円使いましたが、全部食料品ですので、これを本日の食費Aとします。実際に食べたものは、朝がピュアな水200㏄、昼は、鯖寿司・穴子寿司・握り寿司(タコ、イカ、ヒラメ、海老、穴子、ホタテ)と茶碗蒸しといったところです。それで夕食は原山先生と一緒にミニ鰻丼3,000円つまみセット(蟹みそ、イクラ、ウニ)1,500円に麦のジュース450円、これらの小計4,950円を食費Bとして、本日の食費合計9,567円。支出計は、11,047円とこれまでの1日の出費の最高額となりました。

 

今日『死の家の記録』の「五 夏の季節」を読み終え、「六 監獄の動物たち」(248ページから)に入りました。不幸な人々の中にはえん罪のものもあり、奇妙なことに真犯人と同じ監獄にどういう風の吹き回しなのか暮らしているということがある、というわけです。「夏の季節」というこの章の表題と内容がしっくりと一致しているのかどうか、よくわかりませんが、ドストエフスキーが恐るべきリアリズムを表現できた人であることは、大変よくわかります。その最後の部分で、ペテルブルクから将軍がシベリアの監獄へ来て、そのとき、語り手を指して「あれが、あの・・・・・」と話している場面が出てきますが、これは直接ドストエフスキーが体験したことかも知れないな、と思いました。不幸なこと、よくないこと、ひとにはそんなことは当たり前に起こります。楽しいことばかりという人生などあったところで飽きてくるに違いありません。芥川龍之介は、「人生は地獄よりも地獄的である」として、火の地獄であろうが針の地獄であろうが、じっとそんなところにいるだけなら飽きる、といっています。人生は、もっと大変だ。生きている人間が一番恐い。何が起こるか分からないのが人生だ、というのです。自分たちが実際に生きているのが人間の社会ですから、そこにおこっていることをどのようにとらえていくかということは、日々、欠かせない思考です。

なるほど、そのような多様で重層的で、複雑な人生から学ばなければ、人間性の発展などありえません。でも、疲れた。もう休まなきゃあ。ごきげんよう