2月18日(木)本日は愛知地域総行動のとりくみで、区長交渉と市政要求交流学習集会に参加。

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区長交渉において要請書を提出するあんきの会会長と区役所の担当者の方

ミャンマーでは民衆の国軍クーデターに反対する非暴力の抵抗闘争が大きく広がっていることが報道されています。このままでは国軍が国を統治することが出来なくなる日が近いと思います。ミャンマー人民がんばれ、と声援を送りたいです。だけど、ソビエトと中国が沈黙していることに強い疑問を持ちます。

本日、交通費は栄まで240円、そのあと歩いて新栄に行き、帰りも240円でしたから、交通費小計は480円です。朝はほうじ茶350㏄のみ、昼は手製コロッケ1個(大)とキスのフライ2枚に、金目鯛の煮付け、トーフと白菜の味噌汁、ご飯と1個140円の鯛焼きで、1,140円、夕食は麦のジュース500㏄とカレーライス・生卵1個、揚げの味噌汁で870円、そのほか明日の朝食などのためのジョアンのパン1,245円と草餅&わらび餅1,101円を三越にて買っておきましたので食費小計4,356円で、支出小計は4,836円です。

 

昼によく太った鯛やきくんを1枚食べてでかけましたので、自転車に乗りながら、「毎日、毎日、楽しいことばかり~、難破船がぼくのすみかさ」と口ずさんで走っていました。なにごともそういうふうに調子よくいくならいいのでしょうか、そうでもないですね。陽気でほがらかで結構なことであっても、ジレンマや困難にであい、そうしたことを自力で克服してはじめて問題解決能力とか、不撓不屈の精神とかが次第に身についていくのであって、そうしたことにぶつかっていないと、逆に退化するんじゃないでしょうか。この世が二重構造であるように、人生はパラドックスに満ちており、とても一筋縄でゆけるようなものではありません。菩薩のように生きたいと思っても、修羅のようにしか生きれないこともあります。どうしてそういうことになってしまうのか、それが人生というものの妙味だと思うことにしましょう。いかに金を持っていようが、いかに高い地位にあろうが、いかに人々から尊崇されようが、あるいは羨まれたとしても、他者が自分のことをどのように見ようとも、ひとの心から苦しみがなくなることなどありはしないのではないでしょうか。それでも、「毎日、毎日、楽しいことばかり~」とうたっておれることは、ひとつの幸せです。けれども未来永劫、死ぬまでそうであったとしても、人間、死んだら一巻の終わりです。

ちゃん、ちゃん。ごきげんよう

 

2月17日(水)楽しいことばっかりだといいのに、と思うなら、人間性の発展はもう望めなくなるでしょう

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人間の方がよいなどとどうして言えるのだろう

今日は地下鉄で丸の内へ行き、そのあと伏見へ行ったので、交通費は240円×2の480円でした。そのほかにタクシー代が1,000円で、交通費の小計は、1,480円です。

本日朝、スーパーに買い出しに行き、4,617円使いましたが、全部食料品ですので、これを本日の食費Aとします。実際に食べたものは、朝がピュアな水200㏄、昼は、鯖寿司・穴子寿司・握り寿司(タコ、イカ、ヒラメ、海老、穴子、ホタテ)と茶碗蒸しといったところです。それで夕食は原山先生と一緒にミニ鰻丼3,000円つまみセット(蟹みそ、イクラ、ウニ)1,500円に麦のジュース450円、これらの小計4,950円を食費Bとして、本日の食費合計9,567円。支出計は、11,047円とこれまでの1日の出費の最高額となりました。

 

今日『死の家の記録』の「五 夏の季節」を読み終え、「六 監獄の動物たち」(248ページから)に入りました。不幸な人々の中にはえん罪のものもあり、奇妙なことに真犯人と同じ監獄にどういう風の吹き回しなのか暮らしているということがある、というわけです。「夏の季節」というこの章の表題と内容がしっくりと一致しているのかどうか、よくわかりませんが、ドストエフスキーが恐るべきリアリズムを表現できた人であることは、大変よくわかります。その最後の部分で、ペテルブルクから将軍がシベリアの監獄へ来て、そのとき、語り手を指して「あれが、あの・・・・・」と話している場面が出てきますが、これは直接ドストエフスキーが体験したことかも知れないな、と思いました。不幸なこと、よくないこと、ひとにはそんなことは当たり前に起こります。楽しいことばかりという人生などあったところで飽きてくるに違いありません。芥川龍之介は、「人生は地獄よりも地獄的である」として、火の地獄であろうが針の地獄であろうが、じっとそんなところにいるだけなら飽きる、といっています。人生は、もっと大変だ。生きている人間が一番恐い。何が起こるか分からないのが人生だ、というのです。自分たちが実際に生きているのが人間の社会ですから、そこにおこっていることをどのようにとらえていくかということは、日々、欠かせない思考です。

なるほど、そのような多様で重層的で、複雑な人生から学ばなければ、人間性の発展などありえません。でも、疲れた。もう休まなきゃあ。ごきげんよう

 

2月16日(火)嫌なこともいろいろあるけれど楽しいこともいろいろある

本日も文書読みをあれこれとおこない、邪悪とのたたかいとして、避けるだけでなく、注意深く拒むことからたたかうことへの転換に考えをめぐらしつつ、事務所へ出掛けて午後4時から労働者後援会の事務局会議に出席させていただき、歩いてイーブル名古屋へむかって第95回栄総行動第2回実行委員会に出席しました。交通費は、270円×2におさえ、540円でした。朝は緑茶200㏄のみ、昼はおもち2個入りぜんざい1杯で500円、夕食は鯖の煮付け、もやし炒め、トーフの辛い煮付け、ご飯と麦のジュースで1,150円

食費の小計は1,650円で支出計は2,190円でした。

 

彼らにとっての「正義」が仮にあったとしても、自分はそれを邪悪ととらえていますし、真実においてそれなりの理由があり、その人間性や心情や「アクション」について許せないという怒りをもっています。けれどそれだけで生きているわけではないため、そんなことコップの中の嵐で、ばかばかしくて話にならない、という気持ちもずっとあります。分かってくれる人もいますが、分かってくれない人もかなりあり、こちらとあちらは互角かも知れません。分かってもらえる人ばかりではないところに、自分の弱い部分があり、克服しないといけないところがあります。でも、分かってくれる人は今年か来年には覆せるだけの闘争をしてほしいと、強く望まれています。どうしようかな、ちょっと困ったな、やっちゃおうな、もう一年辛抱してもいいかな、と思いはゆらゆらと。たたかいはじめると、そうやすやすとはおさまらんでしょうな。

 

なんのことかわかんないですね。そう、ドストエフスキーの小説の登場人物の中で自分が一番好きなのは、『白痴』のムイシュキンなのです。最後は頭おかしくなってしまう人ですかね。自分は、2017年2月22日に死にかけて戻ってきたので、戻ってきたことは今しているような争いのためだけかどうか、決してそんなことだけのために生きながらえた、ともどうも思えないのです。だから、今やっているたたかいというのは、何か、ついでにしている、という気持ちがあります。その方が本心だと思います。

 

だとすると、現在の世俗諦とは異なる、自分の真義諦はなんなのでしょうか。これはもっと勉強して、もっと深めて、誉れ高き金剛菩薩にでも問い合わせてみないとならないことでしょうか。

もう疲れてきたので、これにて。ごきげんよろしゅう。

 

 

2月15日(月)家計簿調査のとりくみが折り返し点をすぎた

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ミャンマーの民衆は自由におおらかにユニークに国軍への抗議を意思表示している

きょう、朝はピュアな水200㏄のみ。昼は、タラとトーフ、白菜、ネギ、椎茸、えのきの一人鍋を香りの蔵というポン酢にていただきまして、シューマイ5個と白菜とトーフの味噌汁、赤飯で880円、夕食は、とろろそばと中トロの刺身、トマトでデザートはロールケーキとショコラ、バナナとイチゴ盛り合わせで1,000円、食費の小計は1,880円でして、本日の支出はこれだけです。

 

ドストエフスキーは、やはり複雑で多様な現実の諸側面に対しての観察眼が、そっくり文章の中に生かされているので読んでいてああでもあるし、こうでもある、というところがまことに運動的で生き生きと描き出されることで、人間や人生の出来事についての極めてリアルな真相を教えてくれ、同時にそうした文章を読むことそのものが快楽である、といえるのだと思います。これは娯楽小説とは違っているのに、そうしたものとは別種の楽しみをもたらしてくれます。

それで、自分も、この世の中は二重構造だと思うところがあり、表も裏もむきちんと知ることや、実際に世俗の真理から本当の真理にみちがひらけていて、さまざまな事物や出来事人間の側面というものは決してなにか固定的で確定されているということがなく、実に変容する要素にもー満ちているととらえなければならないと思います。疲れも、それを癒やすことができれば活力へと道を開いていくこととなります。それじゃあ、何も躊躇することなく休みましょう。

また明日ね、ごきげんよう

 

 

 

2月14日(日)今日で家計簿調査運動の日程としては半分に到達しました、それがどうした-という感じではありますが・・・

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名古屋法律事務所に歩いて行くときはいつも高層ビルを見上げ上を向いて歩いています

 本日朝はピュアな水200㏄と十勝飲むヨーグルト350㏄で、お昼には栄三越ジョアンさんできのう買ったコーンパン(大=140円)1個とブロッコリ・カニカマ・トマトのサラダにハム1枚と紅茶で700円、夕食は赤飯、手羽元炒め、シューマイ3個、トマト、半平、トーフと白菜の味噌汁、菜の花と炒り卵で700円、食費小計1,400円でした。今日は労働会館の往復で交通費は、270円×2の540円、支出の合計は1,940円です。

 

家計簿調査というのは、昔からよく春闘の前段で12月とか1月の少し金がかかる月に、どんな内容のものが家計の負担となるかを経営側に突きつけて、いかに賃上げが必要で、自分たちはいかに切り詰めて苦しい生活をいとなんでいるか、ということをわかりやすく数字で示してたたかう武器としてやっていました。何かを節約しても、それでも生活費としては全体として足りない、という部分、例えば文化的な暮らしというときに、やはりこの半月間でも、ほとんど映画も見ない(家でテレビでちょっと見たぐらい)、CDや本なども買っていない、教養娯楽などほとんどお金を使っていないのです。コロナ禍ですから、会食というものも自粛していることもありますが、ますますしなくなっている、というのが現実です。だから趣味の古本屋周りも、新本の店にもあまり行っていませんし、音楽の店は立ち寄ることも皆無です。

本は電車の中とか眠る前に数頁読んだらもう眠くなってきます。年なので目もとても悪くあまり読み進めることが出来なくなっていて、それでも読みたい本は相変わらず山のようにあります。ドストエフスキーは『死の家の記録』を再読で読み終えたら、同じ世界文学全集に入っている『虐げられた人々』も再読して、その本を断捨離として処分しようと思っていますが、遅々としてすすまず、娯楽的な小説の方はぼちぼちと進行中、というところです。

でも、ごろごと怠けていたいな、ゆっくりゆったり過ごしたいな、という気もどこかでしていてもうこんなことを書いていてもしょうがないから、さっさと風呂へ入って寝転んで、ちょっと楽しい本でも読んで、眠りにつくことにします。では、今夜もごきげんよう。よい夢を見て下さい。

 

2月13日(日)新しい人よ、目覚めよ!という持続する志をすべての人々と共に生きるなかで絶えず思い起こしています

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年輪を重ねるほどに輝いていくのはたたかっているという人生の誇りなのかな

 本日は午前11時15分頃から憲法と平和を守る愛知の会の宣伝行動、そして正午からは労働者後援会の宣伝行動に参加させて頂きましたので、交通費は240円×2の480円です。

朝はピュアな水200㏄と、十勝の飲むヨーグルトを350㏄。お昼はハンバーグランチで、780円、夕食は牛しゃぶ、チキンささみフライ、トマト、ご飯で1,000円、食費小計は1,780円で、支出計は2,260円でした。

 

自分も年々、年を重ねてきたので、年寄りがたたかっているのを見ていると、ガンバットルなぁと微笑みが浮かんできます。どうして嬉しいのかな。老害だ、と大声で3度もあるとき、あるひとが言い放ったことがあって驚きました。自分よりもその人の方が年上でしたからね。それが果たして自分に言われたことなのかわかりません。しかし、世の中にはそういう「老害」という言葉もあり、そういう言葉を使う人もいるのでしょうが、自分は使いたくない言葉だな、と感じます。どうしてかと言えば、他者をけなしたり、貶めたりするときはもっし気のきいた言葉、微笑ましい言葉がありそうなもので、とげとげしいとか、憎々しいとかあまり悪意よりも滑稽感のある言葉の方が良いんじゃないかな、と思ったりします。

ドストエフスキーの小説で使われる言葉には、そういうものがよくあったり、ただ人物描写ということについてさえ、恐ろしく顎が突き出た男、だとか読んでいて吹き出しそうな表現があったことを思い出します。

今日はさっきまでノートパソコンでZoomの接続テストをやっていましたが、コロナ禍のもとでの在宅勤務もひろがり、会議でも一般的となりつつあって、昔からあったテレビ電話のようなSkypeと、やっていないのでどう違うのか分かりませんが、ヴァーチャルでいいことなんてゲームみたいなものになって、現実感が乏しくなるばかりじゃないのかな、と感じます。しかし、最近はPCにずっとむかっていると、疲労が内部に鬱積するような。なので、今日もここまでということで、ご機嫌よろしゅう。

 

 

 

 

 

2月12日(金)コロナ禍でのさしせまる破局を打ち破るために2月革命・民主主義の徹底を勝ち取ろう!

午前10時30分からFM愛知・高橋さんの5回目の裁判で名駅の名古屋法律事務所に行き、JR中央線代200円、そのあと、愛労連民間部会事務局会議に出席のため、中央線にて金山まで、170円、帰りは愛知争議団連絡会の役員会に出席させて頂いて、金山-大曽根間、地下鉄で270円で、今日の交通費は小計640円でした。

朝はピュアな水200㏄ときな粉・ヨーグルト・蜂蜜MIX、お昼ご飯は高橋さんとエスカ地下のふらんす亭でポンドステーキランチで1,580円、晩ご飯はイオン熱田店で鰆の塩焼きと野菜煮付け、味噌汁・漬物・ご飯で980円、食費の小計は2,560円で、本日の支出小計は3,200円でした。

 

毎年最賃生活体験とか、家計簿を付けていて、ほとほとこうしたことが何の役に立つのかと思うほど単調で、またあきあきするような作業に、なんとなくむなしさや嫌気がさしてきます。それは、まるで、つまらない本を読んでいるのとよく似ていたり、というあきがおこるのです。けれどもこうしたことを集計してみると、人によって食費が2万円から6~7万円と大きな開きが起こったり、数字の裏側の人間の実生活がなんとなくかんじられるようになったりします。これはなんでしょうか、記帳とか管理とか集計とかによって極めて小さな経済の単位から国民経済とか大きな単位に至る社会関係などが、ケネーの経済表とかカール・マルクスが『資本論』第2巻での経済表へのとりくみによく似たようなことを我々自身が個としての経験を通じておこなっている、ということなのではないでしょうか。今回の愛労連による家計簿運動もそういうものとして考えるといわば、簿記・会計というものがどのように労働者階級による管理能力の組織された発達とつまるところ国家規模にまでとらえうる「計画経済」にとって役立つか、ということに結びついているに違いありません。そうすれば、経済的危機とのたたかいにおいての打開の方向性が、民主主義の徹底のもとづく労働組織の中でのジェンダー平等を含む人と人とのと民主的な関係の根本的な再構築や、そのための生産手段の社会化、そうした経済の民主主義に基礎を置く、新しいコロナ後の社会様式を形成する糸口になっていくのではないでしょうか。

 

本日は一日ちょっと忙しかったので、ほとんど読書はすすみませんでした。しかし、組合事務所にいるときにだけ少しずつ読んでいる『三体』を数頁だけ読みました。ニュートント、ノイマンが秦の始皇帝に3000万人の軍隊を貸してくれ、という話です。にやり、としますね。早く眠るため、今夜はここまでということで。ごきげんよう